当事者と支援者

 自死遺族が社会に対して何を訴え、何を求めていくべきかについては、多様な意見があり難しい問題です。私自身、親が亡くなったことを契機に、社会が抱える不条理を強く感じるようになり、その想いを社会に知ってもらいたいという動機で弁護団の活動に関わるようになりました。他方で、遺族が自分の要求実現のためにデモ行進をしたりロビー活動を行うというイメージは持てませんでした。かつての私もそうでしたが、多くの遺族はそのような精神的な余裕が無いまま日々の暮らしを辛うじて乗り切るのが精一杯、というのが現実だと思います。

 誰が何をできるのか、この問いは、社会運動そのもののあり方に関わる、根本的で難しい問題です。私も昔からいろいろ調べてはいるのですが、この論点は、国境を越えて、自死という領域に限らず論じられてきた論点のように思います。

 私が注目してきたのは、障碍者運動の領域でした。障碍者の領域は、重度の身体障がいや精神障碍を有する当事者が運動の先頭に立つことが可能なのか、他方で支援者や前面に出る運動のあり方が果たして妥当なのか、つまり、当事者と支援者との関係について精緻な議論がなされてきた歴史を持っています。自死も、自死した当事者は亡くなっているため当事者になれず、遺族も精神的に大きなダメージを負っており、どうしても支援者が前面に出がちな傾向がある点で、障碍者の領域に近いと考えています。

 韓国の障碍者運動の歴史を調べると、いくつか有益な視点を得ることができます。「韓国 障害運動の過去と現在 障害─民衆主義と障害─当事者主義を中心に」(※1)という記事を読むと、韓国でも「民衆主義」(市民運動への参加を支援者、行政、医療など様々な範囲に拡大すべきという主張)と、「当事者主義」(市民運動の主体はあくまで当事者であることを強調する主張)という2つの主張が対立していたことが分かります。「民衆主義」のように運動のウィングを広げていけば、いろいろな立場の人が運動に参加できる一方、多様な意見を集約するために主張は抽象化され曖昧(ときには極端に無害化され無内容。)になります。「当事者主義」のように運動への参加を当事者に絞ると、獲得目標が具体的で地に足のついた活動になる一方、運動は社会全体と足並みを揃えることができず孤立化・先鋭化するリスクを孕むように思います。

 障碍学の創設に貢献した研究者・活動家として世界的に有名なマイク・オリバー教授は、障碍者団体をいくつかの段階に分けて説明しています。大雑把に説明すると、初期は慈善団体や福祉施設関係者による待遇改善の運動から始まり、それが当事者のニーズに寄り添いきれない面が出てくると当事者の自助組織が生まれます。そして、その次には、当事者の待遇改善の要求だけでは個別の困窮者の支援・救済にとどまってしまうことに疑問を持ち、これを社会構造の問題と関連付けて当事者の「権利」として解釈しなおす組織が現れる。さらに、いずれはこれらの様々な動きが障碍者の権利実現のために連携し協力しあうようになると説明されています。日本の自死遺族支援にかかわる様々な活動が、現在どの段階に当てはまるか、ときには立ち止まって考えてみるのも必要なことのように思います。

※1
立命館大学 生存学研究所 生存学研究センター報告書 [20]
「第二部 韓国 障害運動の過去と現在  ──障害─民衆主義と障害─当事者主義を中心に」